05/05/2021
【良書紹介】「スマホ脳」 アンデシュ・ハンセン著...
05/02/2021
【週の始めに考える】新約聖書ローマ人への手紙12章2節 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。...
04/29/2021
旭川の14歳の中学生がいじめ自殺をした事件について思う。痛ましい事件で悲しく、そして強い憤りを感じる。このような事件はこれまで日本各地で何度も起きてきたが、いつも腑に落ちないのは、なぜ学校や教育委員会は未然に防止ができなかったのか、ということである。2013年の大津のいじめ自殺事件が起きてから、教育委員会制度が法改正によって変わり、首長がある程度教育委員会に関与できるようになった。しかし、教委の独立性は未だ保たれており、選挙で選ばれた政治家(首長)は介入できない部分も多くある。そしてその弊害は、いじめ自殺事件、指導死自殺事件のようなことが起こった時、目に見える形で表面化するのだ。 法律は国会でつくられるので、今の教育委員会制度が適切かどうかについては、ここではあまり触れる予定はない。私はなるべく今自分がこの立場で出来ることに着目して行動に移していきたいのだ。多くの人は出来ないことばかり不満をいい、政治に対して全て傍観を決め込んでしまうケースが多いが、自分が動くことで物事が1%でも前に前進するのであれば、その1%の部分に集中して行動を起こすことが大事だと思っている。後は行動を起こしているうちに別の方策や協力者・賛同者が見つかり、2%の改革につながるかもしれないからだ。 さて、教育委員会制度、及び教育行政について、毎度のことながら指摘されるのは、「事なかれ主義」「隠蔽体質」「自己保身」「お役人体質」といった、典型的な優等生型公務員の弱点に集約される。波風立てずにつつがなく任期を全うできればそれでよし。そして、年功序列型の人事システムなので、教育者として不適格、または教員としてやる気がなくても職場に残れてしまう体質はこういった問題を引き起こしているように思う。これは教育関係者ならだれでも本音では気づいているだろうし、関係者でなくても知っている「公務員の性」なのだ。もちろん、議員だってそれは例外ではないが。 この旭川の自殺事件について、我々教育関係者や政治家が考えなければならないのは、当たり前のことながら、再発の防止である。大野市長や市職員が議会で「再発防止、綱紀粛正」と何度も唱えているが、耳にタコができるぐらい聞きなれた言葉でもある。ここで考えるべき論点は、 ①なぜ教育委員会や学校が事なかれ主義に走り、自殺を防げなかったのか、 ②教育委員会制度の中で、有権者が選んだ首長ができることは何なのか、 だと私は考えている。 ①は既に大体答えは見えている。教育委員会の教育委員はお飾りの名誉職になっているケースが多い。大野市議会でも教育委員の承認を求められたが、簡単な経歴を配られるだけで、「議会はさっさと追認しろ」的なムード。この人がどういった教育的思想をもっていうかどうか、なんて審議する時間は1秒たりともありゃしない。橋下徹氏が言うには、教育長・教育委員共ども無責任体質になっていて、どこが教育行政をやっているかというと、教育委員会事務局。大野市議会でも、市長や教育長より、教育委員会事務局長が答弁する機会が断然多かった。それだけ、学校というのは議員の質問にさらされる機会が多い。それは学校が問題が起こりやすい、問題を起こしやすい機関となっている現れであり、教育行政の中身がブラックボックス化している証左なのだ。教育委員会事務局は権限を実質行使しているが、責任はない。市長・知事は教育行政に直接介入できないのにかかわらず、陰に陽に責任を負わされる。しかし、それでも政治家が最終的に役人・教員の暴走を防いでいくしかないのだ。政治家は多くの人が思っている以上に重要な役割を担っている。そこで②を考える必要が出てくる。 ②はこれも橋下徹氏の「桜ノ宮高校体罰指導死事件」の対応から学ぶことができる。2012年、大阪の桜ノ宮高校のバスケ部で顧問に体罰を受けた生徒が自殺をした事件。勝利至上主義の伝統から、体罰を容認する雰囲気がまだ残っていたが故に、起きてしまった。当然、教委・学校はあたふたするだけで何もできず。当時の大阪市長の橋下氏が桜ノ宮高校の人事を大幅に入れ替え、スポーツ科入試中止をやろうとした。しかし、教委事務局と既存マスコミがこぞって猛反対。しかし、橋下氏は弁護士でもあるので、教委制度の盲点に気づいていた。 それは首長に予算執行権がある、ということである。 「教委が改革しないなら、入試のためのカネは出さないよ」ということである。それでも、あまりに反対が凄いので、橋下氏は再選挙で信を問うつもりでいたようである。しかし最終的に教委・学校側が折れたのである。教員も3分の1ほど入れ替えたようだ。教委や学校を変えるには、やはり政治家が腹をくくる必要がある。 さて、今私は大野市議であるが故に、橋下氏のような行政権を持っているわけではない。しかし、いつ何時、旭川や大津のような自殺事件が起こるか分からない。未然に防止するためにも、教育長・教委事務局に議会で念を押しておくべきだろう。そこで大切なのは、ただ質問するだけでは、優等生的な答弁しか聞けないだろうから、公務員組織、教委制度が事なかれ主義を生みやすい土壌になっていることを行政・議会全体で共有することなのだ。私が市議をした2年間で6件の新聞記事になる不祥事が起きている。何時なんごとなき事件が起こるか分からない・・・そういった意識で物事に取り組みたいと思っている。 できないことについて不満を述べるのではなく、できることから、やっていくのだ。
04/25/2021
2021年4月18日(日)、25日(日)と2回の連載という形で、「中国式愛国主義と信教の自由」というタイトルの記事が書かれていた。松谷...
04/19/2021
久しぶりに漫画本を読む。警察・検察が国策捜査として無実の人を陥れ、逮捕してしまうという悲しい事件について書かれている。主人公優木衛のモデルは鈴木宗男衆議院議員に近い外務官僚だった佐藤優。現在でも多数の著書を執筆し、ラジオや動画に出演している。私と同じキリスト教徒であり、私が好きな作家の1人でもある。...
04/01/2021
石山市長があと5年続いてほしい、という大野市民が3分の1程(約1万人)いるなら、もちろん私はその民意を尊重する。しかし、私が思うにあのような市長があと5年も続くようであれば、大野の停滞感は更に加速するであろう。今の大野には明るさがない、未来への展望が示されないのだ。市長のリーダーシップやはっきりとしたビジョンが示されないために、市民の目に耳に触れるメッセージは官僚の無味乾燥な作文ばかり。これでは大野市の雰囲気が劇的に変わるとは思わない。 目に見えるものしか信じない、いわゆる物質主義的な人は、「大野なんか、何やっても駄目さ」という諦めムードに入っている。確かに、諦めムードに入った方が政治に対して何もしなくて良い口実ができるためか、楽と言えば楽である。だが人口減少と政治の停滞にあえぐ大野市であっても、いろいろやろうと思えばできることはあるのだ。 どこでもそうだが、市民が政治参画を怠るようになると、民主主義が錆びついていく。言い換えれば、独裁が入ってくる。今も福井県は、実質的な自民党一党体制になってしまっているのだ。 さて、私がなぜ石山市長の再選を阻止しなければならないと考えているかというと、シンプルに以下の4つの理由。。 1)何をやりたいのかさっぱり分からない 日本の政治家でよくあるパターンだが、組織の力で権力を握っても、その後何をしたらいいのかよく分からないパターン。 2)答弁は役人任せ 答弁は副市長か役人にお任せ。 3)いるのかいないのかわからない テレビカメラの前で謝罪するシーンが、すっかり板についてしまった。 4)後ろに誰がいる? 山崎-岡田-砂子という有名な福井県連トリオが後ろにいるのは市民の間で周知の事実。こんなのに推されて市長になった日には、何もさせてもらえないだろうな。 石山市長は決して悪人ではないので、議会から不信任を出すとかそういうことはない。選挙で与えられた任期はしっかり全うして頂きたいと思う。しかし、2022年6月の市長に出るのか出ないのか知る由もないが、大野の為にもこのような人物を絶対に再選させてはならない。市のトップから自らの言葉を発せず、後ろに札付きの既得権益層が控えているということであれば、大野市の発展は決して望めないことは明々白々なのである。
03/31/2021
何を当たり前のことを、と今更言われそうだが、実は日本の一番の弱点はここにある。以前にも書いたが、政治参画する意欲が乏しいのだ。日本は名実ともに民主主義国家である。故に、国民は平気で政府や指導者の批判ができる自由な国である。ここは問題ない。...
03/26/2021
A. ただ単に隠すのが下手なだけ。そもそも公務員組織自体が不祥事を起こしやすい体質になっている。...
03/24/2021
本日令和3年度一般会計予算案が議会で承認された。承認されても、執行するかどうかは市長権限だが、橋下徹バリの荒業をやってのける現市長ではないので、普通に執行されるだろう。...
03/11/2021
選挙に立候補するにあたって、ネックとなるのが「仕事」のようだ。私の場合、パートの仕事をいくつか掛け持ちしていたので、市議選に出る時仕事を辞める辞めないで悩む必要はなかった。しかし、これから普通のサラリーマンが選挙に出ようとすると、通常仕事を辞めてから、という流れになる。そうなると、家族や会社から「出るな、辞めろ」と言った圧力がかかるのだ。 ここで候補予定者の政治に対する思いが試されると言ってよい。もちろん、周りに言われて立候補を取りやめる、という選択肢もあるが、それで本当に自分の心が納得するのだろうか。これは自分にしか分からないことだが。少なくとも、私も市議選立候補にあたって家族を含め多くの人に反対されたが、立候補を取りやめる気は更々なかった。「出るのか出ないのか、俺の勝手だろ」ぐらいにしか、思っていなかった。 当時は、18議席を24人で争うという噂が流れており、新人が当選する確率はとても低いと言われていたが、ベテランが5人突然引退表明をして、18議席に19人の立候補となり選挙の難易度は一気に低くなった。候補者が何人であれ、私は立候補していただろう。私には、立候補に当たって多くのやりたい政策があり、社会をよくするために大野市議になりたい、という気持ちが強かったのだ。市議になったって出来ることは限られているが、そんなこと立候補前に知る由もない。自分はやるべきことを、一途にやり切っただけだ。結果は当選。しかし仮に落選していても悔いは残らなかっただろう。逆にここで立候補していなかったら後悔していたはずだ。 2019年立候補当時の私には勇気があった。その勇気は「社会を良くしたい」という信念・信仰から出てきたものだ。議員報酬という安定した収入のことは一切頭になかった。確かに安定した収入はありがたいが、それが目的で市議になるのではない。今フルタイムの仕事を持って、選挙に出るかどうか悩んでいるとしたら、市議になって何をしたいか、が問われているのだろう。または、市議になる、ならないにかかわらずどういう社会を作り上げていきたいか、どういう改革を進めていきたいか、それが問われているはずだ。これが曖昧な政治家は、発言に迫力もないし、当選したところで何をやりたいのか分からない。そして、日本にはそのような政治家が多いのだ。 これは我々日本人の多くが物質主義的な発想で、利害・損得で物事を判断しているためだ。お金や権力は目に見えるため、我々はいとも簡単に崇拝してしまう。こうなると、我々は大きな問題を解決しようとする勇気を持てず、小さな細かいことばかり論じて時間を浪費してしまう。自らの意見を主張して少数派になってしまったら、損である。それなら、黙っていよう、多数派に迎合しよう、となってしまう。 このような雰囲気が蔓延すると、独裁の足音が聞こえてくる。そして、ゆっくりと民主政治が衰退していく。声の大きな人物が物事を独断で決めてしまう世の中の登場である。福井県も無投票が多いので、決して「シアワセ日本一」などと浮かれている場合ではないのだ。事実、福井県は政治を既に自民党に、行政を役人に委ねてしまっている。これでは若い人が住みたくなるような福井県にはならない。 人間社会のあるところ、必ず問題が生まれる。であれば、社会を構成する人々はその問題点を指摘し、解決策を提案してゆくべきなのだが、そのように考える大人は少数派だ。教育現場では政治参画など暇人か変人のするものだ、というふうに教わっているのだろう。その証拠に、投票しなさい、と役人は言うが、若い人に自ら立候補しなさい、という呼びかけをすることはない。教育機関も強大な役人組織であり、人々の思いを集約し政策に反映させるのは不得手だ。 社会を本気で変えようとする政治家になるなら、物事を大きく太くとらえて、極力細かいことに拘ってはならない。実は、選挙に出るにあたって、仕事を辞める辞めないとか、誰々が反対するというのは、些末な問題なのである。市議選・町議選に当選するためにしっかりと準備をすべきなのだが、仮に落選したとしても失業保険をもらいながら他の職場で収入を得ていく。そして働きながら、自分の政治的な思いをブログやYouTubeで堂々語れば良い。実はそういった地道な活動が、我々の民主的な社会を強くしていくのだ。 強い信念は、信仰から出てくると書いたが、旧約聖書に出てくる「出エジプト記」にはうってつけのストーリーが紹介されている。エジプト王国で奴隷として日々働かされていたユダヤ人が、神ヤハウェからの啓示を受けたモーゼに率いられて王国を逃げ出す、という話である。 エジプト軍によって追い詰められたユダヤ民族が、モーセの杖によって割れた海を通って対岸にたどり着くシーンはよく知られている。実は、奴隷状態と言われていたユダヤ人も、エジプトにとどまっている限り、最低限の食糧は与えられていて、脱出しない、という選択肢もあった。 しかし、最終的にユダヤ人たちは逃げ出したのだ。中東のあのあたりは砂漠が広がり、とても安全地帯とは言えない。神に対する信仰がなかったら、エジプトを逃げ出すなど、恐すぎて考えもしないだろう。事実、逃げ出してから、荒れ野を彷徨っているうちに、少しずつエジプトの奴隷時代を懐かしむユダヤ人が増えてきた。モーセはリーダーとして彼らのボヤキに四苦八苦するが、最終的には目的地カナンの地に到達する前に死んでしまう。カナンの地にたどり着いたのは、モーセの弟子、ヨシュアの時代である。エジプトを脱出してから、その時までに40年経過していたのだ。 私にはこのストーリーが選挙に出ようか、会社にとどまろうか悩んでいる人にとって凄く響くと思える。神から新しい啓示を受けても、信仰がなければ行動に移すことができないのだ。確かに難しい決断だとは思うが、政治に対する強い思いというのは、神からの呼びかけでないか、と思える。目先の損得勘定でその強い思いに蓋をしてしまうと、一度きりの人生、非常に勿体ないのではないか。 聖書を紐解きながら、政治について語ってみた。実は、旧約聖書、新約聖書は共に最強の政治学の書でもある。イエス・キリストをはじめ、登場人物の多くは命を懸けていた。その長大なストーリーの中には、ところどころに逆境を切り抜けるヒントが多数ちりばめられているのだ。 政治を語りながら、同時に神や信仰について語る日本の政治家はそう多くはないと思うが、私はただ1人でも多くの国民に政治に参画してもらい、よりよい社会を一緒に作っていきたいと考えている。それだけなのだ。

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