もちろん、人に好かれること、それ自体は良いことだ。
しかし、私たちはしばしば人に好かれるために努力をしすぎてしまう傾向がある。
そして、自分らしさを失ってしまい、本来自分が持つ魅力まで失ってしまう。
例えば、仕事の面接で過度に面接官に良い印象を与えようとすると、振る舞いが不自然になり、却って逆効果だろう。(不特定多数の)女の子にもてようと思ったり、学校の特定の友達グループに入ろうと思ったりして、あまりに神経質になってしまうと、自分らしさを失ってしまわないだろうか。結果としてさらに惨めな思いしてしまわないだろうか。進路について若い人はいろいろ考えることはあろうが、例えば親や教師に評価されたいがために、妥協して本当に自分の進むべき道を諦めていないだろうか。
私は政治家(市議会議員)なので、次の選挙を意識する。私だけではなく、市議さんを含め政治家たちは皆、次の選挙を見据えて葬式、結婚式、運動会、その他あらゆる会合に参加する。なぜか。それは有権者に好かれたいからである。「アイツだけ〇〇に来なかった」と言われたくない。もちろん人に嫌われれば票は減る。特に大野のような小さい自治体では1票は重い。
嫌われることを避けるため、結果的に政治家から語られる政策は、当たり障りのないものばかりで、つまらなくなる。政治家の政策集やチラシを読んだことがあるだろうか。毒にも薬にもならない、できもしないようないいことづくめの羅列である。確かにこれなら有権者は「政治家は誰でも同じ」と思ってしまう。政治家個人の魅力が見えないのだ。
その状況を変えるべく、私は敢えて物議を醸しそうな政策を主要政策に掲げる。
「夏休みの宿題廃止」
「市職員・教職員 有給休暇全取得義務化」
「投票所から介護施設を排除する」
「首長の退職金廃止」
などなど。
このことで僕を批判する人や嫌う人は多数いるだろう。しかし、それでいい。
自分の政策を語れなくなったら、市議をやっていてもつまらない。
この政策を唱えて次の選挙で何票入るか僕は予測できないし、予測しても意味がないと思っている。
市議になって約半年。僕は18人の市議の中でも、あらゆる会合に参加しなくて有名な市議になってしまった感はあるが、時間は有限、参加するイベントは取捨選択すべきだと考えている。ただ、有権者に好かれることを第一に考えると「とりあえず顔だけ出しておこうか」になってしまう。それは何だか空しい。
生き方で大切なのは「必要以上に好かれる努力をしない」こと。
これで大分自分らしく生きられて、進学や就職など重要な選択もそうそう間違うことはないと思う。
最後に、もし政治を変えるために市議選・町議選に出てみようか、と考えている人は、
「落選したら、他人がどういうだろうか」とか
「立候補したら、家族がどういうだろうか」とか気になると思う。
そんなときもぜひ自分の気持ちを最大限尊重して結論を出してほしいと考える。