【多数派の虚実】実は…政治は数ではない。

よく「政治は数である」と言ってくる人がいる。つまり議会や選挙では、多数を制したものが勝つ、という意味である。なるほど一見理にかなっている。長く政治家をしている人から、よく「政治は最終的には数の勝負だから、ここは妥協して多数につかないといけない」という言葉を聞く。しかし、何だかそれが腑に落ちない。それは、これが議会で野合・談合を正当化するために使われている気がするからだ。

 

例えば、市議会であれば、会派は大きいほうが民意を代弁できているのだろうか?会派に入って、自分の言うべき主張が言えなくなってしまうのであれば、会派はかえって逆効果になってしまう。それなら一匹狼でいたほうが良い。

 

昨日、N国党幹事長を務めている上杉隆氏の著書「人生から失敗はゼロになる」を読んだ。多民族国家とは程多いこの日本では、多数側につく人を「普通の人」と呼び、少数派の人を「変わった奴」と指さす。常に多数派が常識を体現し、少数派は何かおかしなことをしている、という風に解釈される。他国でもある程度そうだろうが、日本ではこの傾向が強いのは否定できない。

 

だが、この常に多数派でいないといけない、つまり他の人と一緒でなければいけない、という圧力は我々から

生きるエネルギーを奪っていく。人はそれぞれ違うのだから、無理に他者に合わせようとすると、必ず精神的に負担となるのだ。これが我々日本人から自己肯定感を奪っていく。

 

上杉氏は言う。多数派にいることは確かに楽だが、心が鍛えられない。人は皆違い、違う考えがあって当然なのだから、敢えて少数派として多数派と違う意見を会議などで言うべきだ、と。少数派になると嫌われ、組織で立場が危うくなる可能性がある。しかし、そういう状況に敢えて自分を置くことで心が鍛えられると上杉氏は主張していた。この「心が鍛えられる」という表現がなかなかいいな、と思った。

 

政治の世界では、確かに多数派に属していれば安全でラクだ。しかし、その多数派の多くが確固とした考えを持たずに、影響力を持つ他者に追随しているだけのことも結構多い。これだと心が鍛えられず臆病になり、言うべきことを言えない大人になる。特にこれは議員として致命的だ。どこの自治体でも、有権者が議員は何をしているか分からないというイメージを持っているはずだ。これは、政治家が安易に他者に自分の判断を委ねているからで、自らの主張を有権者の前で十分披露してこなかったからであろう。多数派でいたいから。そうなると、決められる力を持った多数派は何もできなくなるのだ。

 

議会の中では、私は少数派、もしくは1人であっても、声を大にして自分の主張を述べれば、必ず有権者の多くは共鳴してくれる。また、私のことを快く思わない者たちも、様々な場所で私の批判をすれば、私の知名度アップに貢献してくれるのだ。有権者の多くがダニエル支持に回れば、多数派に属する人たちも焦ってくるはず。多くの人はどうやら安全のために多数派に属するのであって、必ずしも信念があって多数派に属しているわけではないのだ。

 

だから安易に議員が数合わせに走ると、却って何もできなくなり、期待を託して投票してくれた有権者からの支持を失うだろう。義理で投票してくれる人もいるかもしれないが、次の選挙では盛り上がりの欠ける陣営に成り下がる。

 

故に、「政治は実は数ではなく、信念の問題なのだ」という結論が導ける。