【教師】子育てが未熟な親に代わる、教育のプロであるはず…なのだが

教師は教育のプロであり、教員免許はその証であると言っていいはずだ。ちょっと考えれば当然ではるが、古今東西津々浦々の親たちの全てが適切な教育を提供できているわけではない。親自身が精神的に不安定だったり、不健全な習慣(過剰な飲酒、薬物、ゲーム依存等)を身につけていたり、家庭環境が極端に悪かったり…家庭を取り巻く現状は人それぞれ違い、今の時代健全な家庭というのは半数あるや否や。

その中で社会が求めているのは教育のプロである教師の役割である。親が提供できない良い教育を、幼稚園や学校で学ぶ必要があるのだが、現状なかなか上手くは行っていなさそうだ。学校では社会に役立つ正しいことを、(体罰や罵声ではない)正しい方法で子供たちは学ぶべきなのだが、昔も今も教育機関というのは問題山積である。「先生や学校はよく頑張ってくれている」と言う親御さんをもちろんいるが、彼らは非常に幸運だったと思う。地方都市である福井県に住む我々は、今日行くレストランを選ぶように、子供が通う学校を選ぶこともできないし、担任も選ぶことはできない。ハズレの学校や教師に出くわしたら、親も子も相当なストレスを強いられる。

 

ここで問題となってくるのは、学校で働く教員の中に、元々教員として向いてない人が教員として働いているのではないか、という疑念だ。多数の教員は使命感を持って職務に携わっていることだろう。しかし、全ての教員がそうであるはずがない。さもなくばこれだけ多くの問題がニュースで取り上げられるわけがない。

 

例えば、塾であれば、教えるのに不向きな講師は即座に解雇され、違う仕事を探すことになる。もちろん、それは塾と講師双方にとって幸せなことなのだ。しかし、学校、特に公立学校では、教員は公務員であるがゆえに身分は安定している。それは一見良さそうなのだが、教員に不向きな人材を内部に抱え込むことにもつながるのだ。公務員組織は組織の新陳代謝が非常に低いので、この問題はどこでも必ず出てくる。学校現場でストレスを抱える人が多い主要な原因の1つとなっている。

 

もう一つ指摘すべきなのは、政治家によるマネジメントが教育現場に入るべきなのだ。学校の管理責任者、すなわち校長と、教育委員会というのは、どうしても改革の導入に及び腰になってしまう。なぜ指導的立場に立つ人間が改革に及び腰になるのか?それは、批判が怖いからである。人は普通必要と分かっていても変化を怖れる。ダイエットは必要と思っても、なかなか食生活や生活習慣を変えられないのと非常によく似ている。そのために、政治家のリーダーシップが必要になり、決断の責任は政治家が負うことになってはいる…が現状はなかなかそうなってない。首長の本音としては、教育案件は全て教育委員会の責任にしておきたくなるのかもしれない。制度がそうなっているから、という理屈をつけて。しかし何か不祥事が起きた時に、テレビカメラの前で謝罪をするのは首長と教育長になる。結局、責任者は首長なのだ。法的にはそこは曖昧でも、実質の責任者は政治家なのである。校長と教委は改革できる立場なのだが、元々それは彼らの義務ではない。(つまり改革してもいいが、しなくてもいい)。改革の義務は政治家が負うのだ。

 

であるからして、家庭における不完全な育児の補完ができるよう、公立の教育機関が十分な役割を果たし、政治家はその環境整備を急がねばならないと私は思う。