【1人でも、たたかう】元地方議員の寺島渉氏から学べることとは?

「地方議会を再生する」(2017:相川俊英著)という本を選挙に出る前、当時はまだ越前町に住んでいた頃に読んだ。数日前に動画でも簡単に紹介した。ここではブログという活字の利点を利用して、寺島渉氏の活動履歴について振り返ってみたい。

1970年 立命館大学法学部入学

共産党に入党し活動する

 

1982年 長野県牟礼村に帰郷

政党活動をしながら農業にいそしむ。

 

1987年 村議に初当選

追及力が凄いので怖れられたが、同時に敵も多かった。

 

1989年 9月議会で不正を追及

一般質問で、半年前に行われた村長選で建設業者10社と選挙管理委員会から村長に違法な献金が渡っていたことが発覚。当時の村議会は村長派で固められ行政側(村長側)の追認機関と化していたため、逆に不正を追及した寺島さん側が批判を受けてしまう。村長側は「後援会の不手際」ということにして後に謝罪するが、辞職には至らず。

 

1994年 ゴミ焼却施設建設における不正入札問題(2期目の終盤)

小さな案件ということで、慣例として中小企業各社が仕事を請け負う予定だったが、大手5社が突然割り込み指名を横取りしてしまう。すると、建設費がもともと19億で出来ていたものが、27億に膨れ上がってしまう。8億の差額が企業側に懐に渡ったという疑惑が持ち上がり、寺島氏がこれを追及する。この手柄を共産党本部の功績にするよう寺島村議に指導したが、寺島氏はこれを拒絶。結果、大手企業側が19億に減額して受注することになり寺島氏の功績として評価されたが、これを機に共産党と関係が悪くなる。

 

1995年 監査委員に(3期目当選後)

牟礼村農林産物直売所の組合が、補助金をもらうために提出した領収書が偽物であることが発覚。組合のトップは現職の村議、施設建設の責任者も村議(副議長)であったため2人は辞職。

 

1997年 議長に就任
これまでの不正追及の功績が議会内でも認められるようになった

1998年 議長不信任案の動議

師走に突然出された動議。寺島氏を憎む議員たちが水面下で議長不信任案を画策しており、賛成8-反対5で可決。法的拘束力はないので辞任しなくても良かったが、寺島氏は反論のチラシを全戸配布。共産党は寺島氏を支援せず。

 

1999年 共産党離党、村議選不出馬

寺島氏は共産党に幻滅し離党。

 

2001年 牟礼村村長選に立候補

支援者が少なく、惨敗。事実上の村八分になり農業に専念する日々。

 

2003年 村議選当選(4期目)

 

2005年 牟礼村と二水村が合併し、飯綱町に  町議選当選(1期目)

何も役は与えられず2年間耐える。

 

2007年 議運委員長に就任

 

2009年 町長・町議選  町議当選(2期目) 議長に就任

 

2011年 議長改選

一部議員が議長選への多数派工作を開始する。副議長の清水氏が機転を利かし動きを封じる。賛成10-反対5で再選。

 

2017年 町議3期目で引退。

 

 

寺島氏が一番目立った活躍をしたのは、牟礼村議時代の1期目、2期目だろう。当時の政治は今以上の金権政治がまかり通っていたわけで、寺島氏の行動は相当異端なものだったに違いない。彼は実質議会の中で1人で戦っていた。1議員でも行政の不作為・不正を封じることができる…寺島氏の活躍からこのことが読み取れる。よく人から「1人では議会では何もできないぞ」と言われるが、さてその真偽はいかに。

 

次に、1998年に議長不信任案が寺島氏に対して出されたが、これもチンピラのいちゃもんに過ぎない程度のこと。議員側は偉そうな理屈をつけて不信任案を出してはいるが、要は寺島憎しの感情が先に出ているだけなのだ。秀逸なのは、ここで寺島氏がしっかりと反論のチラシを全戸配布していること。反論すべき時は反論することが政治家としての責務である。一連の騒動はマスコミがしっかり報道するので、動議なんか出されると知名度が上がるので結構悪くない…などと思ってしまった。