【神の啓示に応えるには】安全地帯から出るには、信仰が必要。信仰が勇気を生む。

 

選挙に立候補するにあたって、ネックとなるのが「仕事」のようだ。私の場合、パートの仕事をいくつか掛け持ちしていたので、市議選に出る時仕事を辞める辞めないで悩む必要はなかった。しかし、これから普通のサラリーマンが選挙に出ようとすると、通常仕事を辞めてから、という流れになる。そうなると、家族や会社から「出るな、辞めろ」と言った圧力がかかるのだ。

 

ここで候補予定者の政治に対する思いが試されると言ってよい。もちろん、周りに言われて立候補を取りやめる、という選択肢もあるが、それで本当に自分の心が納得するのだろうか。これは自分にしか分からないことだが。少なくとも、私も市議選立候補にあたって家族を含め多くの人に反対されたが、立候補を取りやめる気は更々なかった。「出るのか出ないのか、俺の勝手だろ」ぐらいにしか、思っていなかった。

 

当時は、18議席を24人で争うという噂が流れており、新人が当選する確率はとても低いと言われていたが、ベテランが5人突然引退表明をして、18議席に19人の立候補となり選挙の難易度は一気に低くなった。候補者が何人であれ、私は立候補していただろう。私には、立候補に当たって多くのやりたい政策があり、社会をよくするために大野市議になりたい、という気持ちが強かったのだ。市議になったって出来ることは限られているが、そんなこと立候補前に知る由もない。自分はやるべきことを、一途にやり切っただけだ。結果は当選。しかし仮に落選していても悔いは残らなかっただろう。逆にここで立候補していなかったら後悔していたはずだ。

 

2019年立候補当時の私には勇気があった。その勇気は「社会を良くしたい」という信念・信仰から出てきたものだ。議員報酬という安定した収入のことは一切頭になかった。確かに安定した収入はありがたいが、それが目的で市議になるのではない。今フルタイムの仕事を持って、選挙に出るかどうか悩んでいるとしたら、市議になって何をしたいか、が問われているのだろう。または、市議になる、ならないにかかわらずどういう社会を作り上げていきたいか、どういう改革を進めていきたいか、それが問われているはずだ。これが曖昧な政治家は、発言に迫力もないし、当選したところで何をやりたいのか分からない。そして、日本にはそのような政治家が多いのだ。

 

これは我々日本人の多くが物質主義的な発想で、利害・損得で物事を判断しているためだ。お金や権力は目に見えるため、我々はいとも簡単に崇拝してしまう。こうなると、我々は大きな問題を解決しようとする勇気を持てず、小さな細かいことばかり論じて時間を浪費してしまう。自らの意見を主張して少数派になってしまったら、損である。それなら、黙っていよう、多数派に迎合しよう、となってしまう。

 

このような雰囲気が蔓延すると、独裁の足音が聞こえてくる。そして、ゆっくりと民主政治が衰退していく。声の大きな人物が物事を独断で決めてしまう世の中の登場である。福井県も無投票が多いので、決して「シアワセ日本一」などと浮かれている場合ではないのだ。事実、福井県は政治を既に自民党に、行政を役人に委ねてしまっている。これでは若い人が住みたくなるような福井県にはならない。

 

人間社会のあるところ、必ず問題が生まれる。であれば、社会を構成する人々はその問題点を指摘し、解決策を提案してゆくべきなのだが、そのように考える大人は少数派だ。教育現場では政治参画など暇人か変人のするものだ、というふうに教わっているのだろう。その証拠に、投票しなさい、と役人は言うが、若い人に自ら立候補しなさい、という呼びかけをすることはない。教育機関も強大な役人組織であり、人々の思いを集約し政策に反映させるのは不得手だ。

 

社会を本気で変えようとする政治家になるなら、物事を大きく太くとらえて、極力細かいことに拘ってはならない。実は、選挙に出るにあたって、仕事を辞める辞めないとか、誰々が反対するというのは、些末な問題なのである。市議選・町議選に当選するためにしっかりと準備をすべきなのだが、仮に落選したとしても失業保険をもらいながら他の職場で収入を得ていく。そして働きながら、自分の政治的な思いをブログやYouTubeで堂々語れば良い。実はそういった地道な活動が、我々の民主的な社会を強くしていくのだ。

 

強い信念は、信仰から出てくると書いたが、旧約聖書に出てくる「出エジプト記」にはうってつけのストーリーが紹介されている。エジプト王国で奴隷として日々働かされていたユダヤ人が、神ヤハウェからの啓示を受けたモーゼに率いられて王国を逃げ出す、という話である。

 

エジプト軍によって追い詰められたユダヤ民族が、モーセの杖によって割れた海を通って対岸にたどり着くシーンはよく知られている。実は、奴隷状態と言われていたユダヤ人も、エジプトにとどまっている限り、最低限の食糧は与えられていて、脱出しない、という選択肢もあった。

 

しかし、最終的にユダヤ人たちは逃げ出したのだ。中東のあのあたりは砂漠が広がり、とても安全地帯とは言えない。神に対する信仰がなかったら、エジプトを逃げ出すなど、恐すぎて考えもしないだろう。事実、逃げ出してから、荒れ野を彷徨っているうちに、少しずつエジプトの奴隷時代を懐かしむユダヤ人が増えてきた。モーセはリーダーとして彼らのボヤキに四苦八苦するが、最終的には目的地カナンの地に到達する前に死んでしまう。カナンの地にたどり着いたのは、モーセの弟子、ヨシュアの時代である。エジプトを脱出してから、その時までに40年経過していたのだ。

 

私にはこのストーリーが選挙に出ようか、会社にとどまろうか悩んでいる人にとって凄く響くと思える。神から新しい啓示を受けても、信仰がなければ行動に移すことができないのだ。確かに難しい決断だとは思うが、政治に対する強い思いというのは、神からの呼びかけでないか、と思える。目先の損得勘定でその強い思いに蓋をしてしまうと、一度きりの人生、非常に勿体ないのではないか。

 

聖書を紐解きながら、政治について語ってみた。実は、旧約聖書、新約聖書は共に最強の政治学の書でもある。イエス・キリストをはじめ、登場人物の多くは命を懸けていた。その長大なストーリーの中には、ところどころに逆境を切り抜けるヒントが多数ちりばめられているのだ。

 

政治を語りながら、同時に神や信仰について語る日本の政治家はそう多くはないと思うが、私はただ1人でも多くの国民に政治に参画してもらい、よりよい社会を一緒に作っていきたいと考えている。それだけなのだ。