【日刊県民福井より】 神に縛られた生は、人間に縛られる生から解放してくれる

2021年4月18日(日)、25日(日)と2回の連載という形で、「中国式愛国主義と信教の自由」というタイトルの記事が書かれていた。松谷 洋介氏(金城学院大准教授)のエッセーである。中国がここ数年、経済的には資本主義、政治的には一党独裁主義と強烈な矛盾を含んだいびつな制度が生んだひずみからか、パワーでその内在する矛盾を抑え込もうとしている。それが、香港の民主化運動の鎮圧であったり、チベット・ウイグルにおける「再教育施設」なのだろう。

 

私自身もキリスト教徒であるが故に、常々感じていたのだが、香港の民主化を求める人たち、その中でも若者がとりわけ多かったことについて、一体彼らのどこにそれだけの情熱とエネルギーがあるのか考えさせられた。その答えの1つが、松谷氏の指摘するところでは、キリスト教なのだそうである。香港人はイギリス統治時代の名残から福祉、教育がキリスト教団体に委任されていたようで、香港の民主活動家の多くがキリスト教的価値観を強く持っていたのだ。

 

中国国内のクリスチャンたちは、長らく共産党一党独裁制度の下で、制限されたクリスチャン生活を送っていた。教会や教団も政府公認のものでなければならず、政府を無視して布教活動などしようものなら、まず逮捕・収監されるだろう。そんな環境の中でも、中国人クリスチャンたちは強靭な信仰を心に育んでいる。ここが米国や日本のキリスト教徒と大きく違うところだ、と教会関係者の多くが口を揃えて言う。

 

中国で生きる、ということは、自分の内なる本音を隠して生きなければならない、ということである。江戸時代の隠れキリシタンのように、本音がばれれば権力側によって連れていかれ拷問されてしまうからだ。一生を棒に振ると言っても過言ではない。そんな厳しい環境なのである。私は当時のことはよく覚えていないが、冷戦時代の旧東側諸国もそのような環境だったのだろうか。程度の差はあれ、少なくとも政治的、宗教的には。

 

そんな環境の中で信仰が強くなるとはどういうことか。松谷氏によると、「外からの圧力による嘘の生へと無理やり変えられてしまうことに抵抗し、むしろ真実の生を生きようとする。宗教信仰を持つ人々は神に縛られているが故に、人間には縛られない」姿勢なのだそうだ。この部分が松谷氏の連載の中でもっとも重要だと私は思う。

 

政治を大学で専攻し、今市議会議員となった身である私には、信仰の重要さをかつてないくらい実感している。もちろん、自らを「立派なクリスチャン」と思っているわけではないが。政治の世界に足をつっこんだ者として、時折自らの内なる声に蓋をして、多数派に迎合したいと思う誘惑にかられる。真実を語るのを避け、中国共産党を怒らさなければ、中国では安全である。それと同じように、議会の多数派が怒るようなことを言わなければ、4年間は安心して議員生活を送ることができる。しかし、これがキリスト教徒の生き方なのだろうか。これが神が望まれている「生」なのか。答えは、香港にいる民主活動家たちが教えている通り、「否」なのである。

 

だが、福井県においては、あまりにも多くの政治家が自民党に入ろうとする。自民党に入らなければ何も出来ない、というのがその主な理由らしいが、自民党に入って彼らは何をやろうとしているのだろう?それは多くの場合伝わってはこない。きっと自分の本音が伝わってしまっては、巨大組織から睨まれるのだろう。だから隠す。

 

日本社会は中国社会よりも、はるかに自由・・・であるはずだ。しかし、実際には人間関係の面倒くさい部分で苦しんでいる日本人は政治家だけではない。日本には様々な伝統や慣習もしぶとく残っているため、これらが自分たちの自由を制限していると感じている人も多いはずだ。松谷氏の言うように、いかに信仰を基盤に「真実の生」を生き抜くことができるのか、共産主義国内のキリスト教徒たちから教わっているような気がする。

 

親、教師、組織、上司、先輩、国家権力等・・・自分より強い人に忖度して自らの本音を隠すといった「嘘の生」を生きている日本人は結構いるはず。共産国のクリスチャンたちから「真実の生」を生きるパワーを分けてもらいたい、と私は思う。